出版社立ち上げ(た)日記

ひとり出版社・人々舎の日記です。

私の顔は誰も知らない(『私の顔は誰も知らない』インべカヲリ★)

 なぜ多くの女性は、これほどまでに偽りの姿で生きているのだろう。いろんな女性から話を聞くなかで、そう思うことがよくある。いかにも普通を装って、あるいは違う自分を作り、本来のパーソナリティを隠している。でも考えてみれば、私も昔はそうだった。だから今、こうした写真作品を撮っているのだろう。そんなことをテーマに書いていこうと思う。

 私は写真家で、ホームページで募集した一般の女性を被写体に、ポートレート作品を撮っている。ほかの写真家との違いは、撮影前に被写体の女性から時間をかけて話を聞き、相手 を知ることから始めるところだ。これまでどんな人生を歩んできたのか、経験したことや感じたこと、考えたことを聞き取り、そこから写真のイメージを膨らませていく。人の心を掘 り下げるという作業は簡単ではないので、話を聞き始めると三時間くらいはすぐに経つ。

 ほとんどの女性は、長い時間をかけて自分の話をするという経験がないため、初めて人に打ち明けるという話も出てくるし、喋りながら自分の本音に気づくということもある。そう した過程を経て撮影に入るので、写真に写る姿も普段とは違う。どれくらい違うかというと、個展会場に本人が現れても、周囲の誰もそのことに気づかないということがしばしば起こりうるくらいだ。写真のなかで表現したい自分と、日常生活で見せている自分が、それほどに違うということだろう。

 なぜそうした写真を撮るのかと聞かれることがある。その答えは、私に限ったことではなく表現者全般に言えると思う。アーティストは、作品のなかで繰り返し自分のトラウマを表現するものだからだ。

 そう考えるようになったのは『記憶を消す子供たち』(レノア・テア/草思社/一九九五)という、抑圧された記憶を研究している精神科医の書いた本を読んだことがきっかけだ。このなかに、あるミステリー作家が、幼少期の強烈なトラウマ体験を、無自覚のうちに繰り返し作品のなかに登場させていたという実例が出てくる。しかも当人は、体験の一部を完全に忘れていたにもかかわらずだ。

 私はそれを読み、あらゆる表現衝動の根っこにはトラウマが潜んでいるのだろうと解釈した。それは自分自身や、周りの表現者を見ていてもそう思う。作品のなかで絶対的にこだわる部分、その表現でなくては自分の作品とは言えないもの、というのが作家にはある。そうした衝動の根っこには、抑圧された記憶が潜んでいるのだろうと私は思う。

 では自分のトラウマとは何なのか。と考えれば、おそらくそれは子ども時代にひたすら周囲に合わせてわかりやすい人間を演じようとし、そうしなければ生きていけなかったことだと思う。この世の中に私の頭のなかを理解できる人間なんていると思わなかったし、受け入れられるとも思わなかったし、自分の主張を話すなんて考えたこともなかった。そういうわけで、まずは自分の話から書いてみたい。

 小学生のころの私は、まったく勉強のできない子どもだった。通知表はほぼオール二で運動神経も悪く、皆が当たり前に理解していることを私だけ理解できないことが多々あった。例えばクラス全員が、ほとんど教わらなくても引き算を理解していることの意味がわからなかった。先生が作ったオリジナル表記のサイコロを使った算数のゲームは、皆は楽しく遊んでいるのに私だけルールが理解できず何をしているのかわからない。天体観測は、空に星があるというだけで、星座という概念も、判別がつくことの意味もわからなかった。イニシャルを教わったときは、イニシャルというものがこの世に存在する理由がわからずパニックになった。とにかくこの世界のありとあらゆるルールについていけなかったし、目の前で繰り広げられることのほとんどに興味が持てなかった。私はきっと皆とは違う種類の人間なんだろう、そう思っていた。

 学校教育で評価基準となるすべてが最下位レベルで劣っていて、その上、子どもが遊ぶ鬼ごっこのような遊びも、何が楽しいのかさっぱりわからなかった。そもそも、自分が子どもでいる、ということが面白くない。絵を描いても大人のように上手くは描けないし、一人でどこかへ出かけることもできない。何をしても誰と話しても面白くなくて、ひたすら毎日が退屈だった。それでも一人でいるのは恥ずかしいので友だちは作る。そのためには、ほかの子どもと同じような子どもでなくてはならない。皆が楽しいと思っているものを楽しいと感じ、笑うタイミングで笑い、驚くタイミングで驚き、皆が言いそうなことを言う。いつでも周りのリアクションを見ながら相手に合わせ、適当にやり過ごしながら、早く子ども時代が過ぎろ! と願いながら中学までを過ごした。

 高校生になると、時代は女子高生ブーム真っ盛りだった。それ以前は、高校生など子どもだと思われていたはずなのに、あるときから急に「女子高生」が注目され始め、もっとも女として魅力がある年齢とみなされるようになったのだ。私が入学した一九九六年は、まさに「援助交際」という言葉が流行語大賞のトップテンに入った年でもある。高校の「制服」に、女としての付加価値が付き、女子高生というだけで値段がつく。女子高生の記号は、短いスカートにルーズソックス、ガングロ、茶髪語尾を上げた喋り方で、彼女たちはコギャルと呼ばれていた。ブームというのは恐ろしいもので、当時は社会全体の同調圧力で女子高生のイメージが固められていた。女子高生は、ブランド好きで、ヴィトンのバッグ欲しさに援助交際をしており、将来のことなど考えない。今の高校生とは比べものにならないほど見た目も派手だったし、世間がイメージする「女子高生」を体現している女子が、社会でもっとも価値のある存在だった。彼女たちは、ヒエラルキーの頂点にいることを自覚していたから、社会人の男女より、はるかに自信を持って渋谷を歩いていたし、大人の男性たちは怯えるような目で女子高生を見ていたように思う。そして、世間のイメージから外れた「普通の女子高生」は、メディアから完全に無視され、いないことにされていた。

 私は校則の厳しい都内の私立女子高に通っていたので、そこまで派手な格好をしている生徒はいなかったけれど、それでも日焼けサロンで肌を黒く焼いた女子も、放課後になると厚化粧をしてルーズソックスに履き替える女子も当たり前にいた。

 私はというと、当然そうした女子高生文化に興味はなく、プリクラもカラオケも友だちとの会話も何ひとつ面白くなく、相変わらず何をしても退屈だった。友だちはコギャルではなく普通の女の子たちだったが、それでもほかの子が当たり前に楽しんでいる行動が、私にはただの消費に感じて面白くない。私の家庭は校則に従って高校まではアルバイト禁止だったので、外に世界を広げることもできない。何も生み出さない毎日が耐えられず、何をしたら楽しくなるのか見当もつかなかった。社会の作った女子高生にはならないぞと気負うあまり、流行り言葉を一切使わず、ルーズソックスは一度も履かず、当時、池袋西口にあった芳林堂書店本店の「心理」の棚の前で一人本をあさっていたけれど、だからといって晴れやかな気持ちには少しもなれない。友だちと喋って瞬間的な「楽しい」は感じても、常に虚無感が付きまとった。毎日、毎日、自分と相反する価値観のなかに放り込まれていれば、頭が狂ってくるほうが健全な反応だ。しかもその価値観は教室を飛び越えて、社会全体からも向けられ ている。

 そのストレスは私だけではなかったと思う。実際、高校のクラスメイトのなかには、コギャルばかりいる女子大に進学したことが原因で精神不安定になって中退した子もいたし、コギャルの集団を見ただけで悲鳴を上げて帰ってしまうほど拒否反応を示していた子もいた。大量生産されたコギャルと女子高生が絶対的な価値で、その基準でしか自分を見られないという状態は地獄だったと思う。しかも大人は「今が人生で一番楽しいときだよ」とプレッシャーをかけてくる。まるで青春時代を楽しめない人間は一生後悔するぞと言わんばかりだ。

 あれが好き、これが知りたいと自分から好奇心を持つ前に、「人生を楽しみたいなら、これに興味を持ちなさい」「こういう人間になりなさい」と先に提示されてしまうのは恐ろしいことだ。情報にさらされすぎて、ほかの選択肢が完全に見えなくなる。思春期であればなおさらだ。自分の感性で生きるということは、高度消費社会で本当に難しい。だから、二十年経った今でも、相変わらず「個性」とか「ありのままの自分」という言葉がもてはやされているのだろう。

 高校を卒業した私はその後、短大生となるが、自由度が広がって何かが変わるかと思ったら何も変わらないことに愕然とした。相変わらず何をしても、誰と話しても楽しくない。この世界は何かが違う、自分はほかの人間とは決定的に何かが違うという気持ちがぬぐえない。

 学校はクリエイティブ系の学科だったけれど、それでも私は馴染めなかった。映画も小説も、他人の作り話にしか思えなかったし、スポーツやオリンピックは他人の祭りにしか感じなかった。アニメや漫画オタクの集団は、ものを買うことで自己主張している人にしか見えなかったし、演劇や音楽やサブカルも、そこに属する一塊の記号にしか見えなかった。パッケージ化された女子高生と何も変わらない。

 都心のショッピングビルには、どのメーカーでもシーズンごとにほぼ同じデザインの服が並び、若者は選択の余地なくそれを買っていく。一年経てばまたその年の流行が入れ替わり、皆で同じデザインの服に買い換える。よく外国人から「日本の女の子はみんな同じ格好をしている」と揶揄されるけど、同じ服しか売ってないのだから仕方ない。流行に抗おうとすれば、質の高いものを選ばなければいけないから余計にお金がかかるのだ。

 皆が同じ服を着て、同じテレビを見て、同じゲームなり音楽なり映画なりを見て、同じ飲食店に行列を作って、同じ話題で喋っている。この世の中で趣味と呼ばれるもののほとんどは、ただの消費活動にしか見えなかった。それの何が楽しいのかさっぱりわからなかった。ある日ふと、相田みつをのパクリみたいな詩をデザインした手帳が、店頭で大量販売されているのを見たとき、こんな世界で生きていくのは心底嫌だと思った。生産者側に若者の消費行動をコントロールしようとする意図がありありと見えたからだ。生きるということは、延々繰り返される消費活動なのか。人はものを買うことでしか人間になれないのか。別に相田みつをのパクリに失望しているのではなく、逃れられないシステムをそこに見て絶望したのだ。

 当時私は、一人でビデオカメラを持って映像制作をしたり、遊び程度に写真を撮ったりしていたけれど、周りにいるアート志向の人間と一緒にいても何も共通点を見つけられなかった。彼らは何の抵抗もなく健全な精神状態で、話題の映画を観たり、本を読んだりテレビを観たりしている。けれど私には、情報そのものがストレスでしかなかった。少しでも何かの影響を受けて自分が殺されていくのが嫌だった。自分の価値観を固定するまでは、誰にも支配されたくない。メディアによる情報をなるべくシャットアウトして生活していたが、当然その考え方は、世間の常識と百八十度違うものだ。「クリエイティブなことをしたいなら、多くの映画を観て、多くの本を読まなきゃいけないよ」と忠告される。それが十人中十人にとっての正解だった。

 友だちという概念も嫌いだった。友だちというのは、定期的に集まって一緒に消費活動するプレイにしか思えなかった。そのことに何の意味があるのだろう。昨日と今日を比べて進化がない、発展していかない日々が耐えられなかった。

 このころから私は友だちと群れるのを止め、一人で行動するようになっていたけれど、相変わらず人前では、自分が考えていることなんて話さなかったし、ほかの人と同じような人間を演じていたし、皆が言いそうなことばかり言っていた。行く場所によってキャラクターを変えていたし、どれが本当の自分でもなかった。

 その後、短大を卒業した私は、編集プロダクションで雑誌の編集者として働くことになった。就職活動などしていなかったけれど、たまたま求人を見つけ、三日麻疹にかかって熱が下がった翌日、フラフラになりながら私服で面接を受け、朦朧とした頭で適当な原稿を書いたら、なぜか受かったのだ。

 そこは社長とスタッフ四人ほどの小さな会社で、主に男性誌を中心とした雑誌記事を作っていた。編集といっても書く仕事が多く、ライター志望者の集まりのようなものだ。給料十三万円で、初日からいきなり原稿を書くことになるほど忙しく、徹夜や土日出勤は当たり前。仕事のやり方は教えてくれず、何をするのが正解なのかもわからないまま仕事が飛んでくる職場だった。私と同時期に入った男性二人のうち一人は、一週間で「精も根も尽き果てた」と置手紙を残して逃げてしまった。社長は残ったもう一人の男性に期待をかけていたけれど、その男性も半年ほどで辞めてしまった。私は、お茶の出し方も、タバコの買い方も、地図の見方も、電話の受け答えもわからず、毎日怒鳴られてばかりいた。テレビを見ないので、芸能人の名前も、世の中で何が流行っているかもわからない。一生懸命、普通の人のように振舞おうとするが、そのことでかえって怒られる。「才能ないなら死んじまえ!」、「ほかの人間と同じことしかできない奴はいらない」など、握り潰した紙を頭に投げられたり、ゴミ箱を蹴られたりしていた。けれど私は逆に、その言葉にえらく感動していた。学校で強制されていた価値観と真逆だったからだ。他人と違うことが求められる世界なんて、天国のようだ。

 しかも、それまで家では門限があったのに、0時を過ぎても仕事が終わらないおかげで親から何も言われない。夜型の私は、深夜に一人で街を歩けることが嬉しくてしょうがなかっ学生のころは、ことあるたびに大人から、「学生時代が一番楽しい」「仕事は大変だよ」などと言われていたけれど、とんでもない嘘をつかれていたもんだ。こんなことならもっと早く仕事していればよかった。学生時代なんて二度と戻りたくない、そう思った。

 しかし、社長はそんな私を自主退職させたくてしょうがなかったらしい。これは後から聞いた話だが、三人採用して二人辞めさせ、優秀な一人を残すという計算だったようなのだ。ところが、もっとも即戦力のない私が残ってしまい、しかもなかなか辞めない。そのため一生懸命、嫌がらせをしていたらしい。けれど私は、どんなに理不尽なことで怒鳴られてもキラキラしていた。今までモノクロだった世界が色鮮やかに見えて、毎日が充実していた。

 けれど八カ月が経ったとき、社長は頭を抱えながらこう言った。「インベさんにこの業界は向いてない。方向転換は早いほうがいい」  そして、いつの間にか辞表を書くよう誘導されていた。「普通の人が何を考えているかわからない人には、この仕事は難しい」とも言われた。

 仕事がなくなった私は完全に開き直った。すべての能力が平均以下で、特技というものを持っていない私は、文章を仕事にするくらいしか思いつかなかったからだ。この世でできることがなくなった以上、もう何をしたっていいじゃないか。しかも、それまでは自分が最底辺だと思っていたのに、世の中には私より仕事ができない人がいるという信じられない事実まで知ってしまった。もう怖いものは何もない。それまで、自分の創造する世界は誰にも理 解できないだろうと思っていたけれど、それを見せることに抵抗はなくなっていた。そうし て始めたのが写真だった。

 そのころの私は、自分が持っている自己イメージと、人から見た他者イメージに大きく開きがあって、そのことが酷くストレスだった。一人鏡の前で見せる私の顔は誰も知らない。私が頭のなかで考えていることは誰も知らない。それまでの二十一年間、周りに合わせながらやり過ごしてきた私は、一眼レフカメラの使い方を覚えたことをきっかけに、衝動のままセルフポートレートを撮り始めた。たまにモデルを使って撮影することもあったけれど、そこには自分を投影していた。するとこの写真があっさりと周りに評価されてしまったのだ。人に見せるたび褒められ絶賛される。そんな経験は、今までの人生ではありえないことだった。

 そのうちに、自分の人生よりも他人の人生のほうがはるかに面白いことに気がついた。映画や小説やメディアを通した情報ではなく、目の前のリアルな存在が一人ひとり違うストーリーを持って私の前に現れる。写真を撮るという目的のもとに、好きなだけ相手の人生を聞けるという状況は、撮影よりもはるかに楽しい作業だった。 そうしてわかったことは、この社会には、かつての私と同じように擬態して生きている女性があまりにも多いということ。「他人には理解されないだろう」と考えて、誰にも話していないことを持っていること。しかもそれは、普段は自己主張が少なかったり、まっとうに 生きているように見えている女性ほど、内面との落差が凄まじい。

 多くの女性は、社会に適応して他者とコミュニケーションをとるために、いかにもその辺にいそうな人間に擬態していたのだ。