出版社立ち上げ(た)日記

ひとり出版社・人々舎の日記です。

『愛と差別と友情とLGBTQ+』第一章 「ロック・ハドソン」という爆弾 公開

誰も知らない、日本史上画期的なゲイ差別裁判

 一九九三年二月二十三日、大雪積もるJ・F・ケネディ空港に下り立って、新聞社特派員としての私のニューヨーク生活が始まりました。それから二十五年近くもここに住み着くことになるとは予想もせずに。

 ニューヨーク特派員の仕事は国連本部(特に安全保障理事会)および全米の社会ニュースの取材です。政治や経済ネタはワシントン総局がカヴァーしています。なのでニューヨークには社会部畑の記者が赴任することが多い(ウォールストリートがあるので経済部記者を送る社もあります)。

 赴任して三日目の二月二十六日の正午過ぎ、八年後に起きることになる「9・11」の伏線と言うべき「世界貿易センター地下駐車場爆破事件(*1)」が起きました。そればかりか四月十九日にはテキサス州ウェイコで「ブランチ・ダヴィディアン事件(*2)」が起こり、二年後の同日には「オクラホマ連邦政府ビル爆破事件(*3)」が発生したりと、私の赴任期には大事件や大事故が立て続きに起きました。おまけに国連はブトロス・ブトロス・ガリが事務総長で、「平和への課題」という提言の下に国連による世界和平への積極介入が行われた時代でもあり、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦の国連平和執行部隊取材でクロアチアマケドニアに入るなど、大忙しの三年間でした。

 その間に、それでも日課のように取材しようとしたテーマが「エイズ」でした。八〇年代に始まったエイズ禍はニューヨークでも(あるいはニューヨークだからこそ)まだまだ猛威を振るっていました。日本ではゴシップやスキャンダルの類いで扱われることの多かったエイズ関連のニュースは、アメリカでは連日硬派・軟派*4ともどもトップの扱いでしたし、社会全体が(子どもたちへの教育も含めて)一丸となって取り組んでいる問題でもありました。映画、小説、TVドラマ、さらにはブロードウェイまでがエイズ抜きでは語れませんでした。そしてエイズ問題を通じて、私はおびただしい量、おびただしい分野、おびただしい人間の、ゲイ関連情報に触れることになりました。

 それは生まれて初めての「ゲイ」情報のシャワーでした。日本では決して得られることのなかった硬軟とりまぜての情報の大波でした。

 私は、この九〇年代半ばに、ほとんど英語情報によって「ゲイ」というものを知り始めました。

 もっとも、ニューヨークに来る前の日本には「ゲイ」の情報がまったくなかったかといえばそうではありません。
 私の渡米二年前の一九九一年に、日本でも初の画期的なゲイ差別訴訟「府中青年の家事件」裁判が始まっています。これは「動くゲイとレズビアンの会(通称「アカー」OCCUR)」というゲイの人権団体が東京都を相手取って起こした損害賠償訴訟で、「府中青年の家(*5)」で研修合宿に入ったアカーのメンバーたちが、同性愛者のグループであることを理由に同じ日に利用した他団体から差別的嫌がらせを受けたことに端を発した事件です。アカーは青年の家の職員側に善処を求めましたが、「家」側は逆にアカーの存在こそが問題の引き金となったとして、あろうことか以後のアカー側の施設利用を拒否したのでした。

 裁判は一審、二審ともアカーの勝訴に終わりましたが、この画期的な判決は、当時の日本で大きく取り上げられることはあまりありませんでした。 

 しかしアメリカでは違いました。一審の東京地裁での勝訴があった一九九四年は「ストーンウォール・インの暴動」から二十五周年を迎える記念すべき年でした。私のニューヨーク赴任二年目でもあったその年の六月末、ニューヨークの「ゲイ&レズビアン・プライド・パレード」に参加しようと、そのアカーの(当時の)若者たち二十数人がはるばるやってきました。この時、彼ら彼女たちが着ていたお揃いの特注Tシャツには「You Can Fight City Hall」と書かれていました。

 英語のイディオムで「Can't Fight City Hall」というものがあります。「シティホール(市役所)とは戦えない」。つまり、役人たち=官僚制度と戦おうと思っても無理、日本流に言えば「お上には逆らえない」「長いものには巻かれろ」という意味です。その「Can't(できない)」を「Can(できる)」に言い換える。日本には「ゲイに対するあり得べからざる差別が存在する」と日本の司法に初めて認めさせた「アカー」の勝訴は、「やればできる」というメッセージをアメリカ人に伝えて沿道から大きく拍手を浴びたのでした。

 そのパレードの終わった夜に、解散地点に近かった私の自宅に彼らを招いてささやかなパーティーを催しました。好天に恵まれ陽に焼けた彼らの晴れがましく誇らしげな顔を私は今も忘れていません。

 「日本の文化は武家衆道や仏教の稚児の慣習のように歴史的にも同性愛に寛容で、欧米のような(あるいは死刑相当の刑罰の残るアフリカやイスラム圏諸国のような)差別はない」と言う人たちがいます。もっとも、この場合の「歴史的にも」という言い方は明治以降の流れを無視していますし(歴史は、ある場合は簡単に断絶もするものです)、「色小姓」とか「陰間 」などのあまり肯定的ではない響きにも耳に蓋しているのでしょう。「歴史的に寛容だったから、いま現在も寛容になれる素地はあるのだ」という希望的な文脈で戦略的に語られることもありますが、そこにある欺瞞的な論理立ては否定しようがありません。いやそれ以上に、「差別はない」ならばなぜかくも多くのLGBTQ+の人たちがカミングアウトに逡巡するのか説明がつきません(*6)。その差別が、妄想や自家中毒の類いだと言うならば話は別ですが。

 「アカー」の裁判はその「差別」の存在を日本の歴史に初めて公に記したものでした。同宿した「日本イエス・キリスト教団青年部」から「こいつらホモの集団なんだぜ」と揶揄されたり旧約聖書の「女と寝るように男と寝るものは、ふたりとも憎むべきことをしたので、必ず殺されなければならない」の一節を読み上げられたり、別の少年サッカーの団体からは入浴を覗き見されたり「またオカマがいた」と嘲笑されたりした嫌がらせについて、被告の東京都側は同性愛者が同宿したことによって惹き起こされた「秩序の乱れ」であると主張したのですが、判決は明確に「同性愛者に対する蔑視」こそが原因だと認定し、さらに、嫌がらせをした側に対して施設利用を拒絶するならわかるが、嫌がらせをされた同性愛者側の利用を拒絶することには理由がないと断罪したのです。

 つまり、「秩序」を乱したのはアカー側ではなく、嫌がらせした側、さらにはそれを庇った青年の家側だと明言した―そして「従来同性愛者は社会の偏見の中で孤立を強いられ、自分の性的指向について悩んだり、苦しんだりしてきた」とまで言い切ったのでした。

 負けた都側は控訴します。けれど九七年結審の東京高裁でも、判決文はこう結論づけます。 

(アカー側が嫌がらせを受けた)平成二年当時は、一般国民も行政当局も、同性愛ないし同性愛者については無関心であって、正確な知識もなかったものと考えられる。しかし、一般国民はともかくとして、都教育委員会を含む行政当局としては、その職務を行うについて、少数者である同性愛者をも視野に入れた、肌理の細かな配慮が必要であり、同性愛者の権利、利益を十分に擁護することが要請されているものというべきであって、無関心であったり知識がないということは公権力の行使に当たる者として許されないことである。このことは、現在ではもちろん、平成二年当時においても同様である。(中略)都教育委員会にも、その職務を行うにつき過失があったというべきである。

 ―都側は上訴を諦めました。

 相対的であれ絶対的であれ「日本には同性愛差別はない」あるいは「法律で禁止しなければならないような差別はない」と言い立てる人たちは、法律で裁かれねばならなかったこの事例、司法による差別の明記の歴史を(恣意的に見ないフリをしているのではないのなら)単に知らないだけなのかもしれません。そしてこの日本初の同性愛差別裁判の勝訴の論拠となったのは、実は「ストーンウォールの暴動」から続く、アメリカおよび世界の「同性愛」非病理化の流れで構築された言説群だったのです。

 第一審判決は次のように言っています。長いですが、とても重要な歴史的事実として引用します。

 かって、同性愛に関する心理学上の研究の大半は、同性愛が病理であるとの仮定に立ち、その原因を見い出すことを目的としていたが、一九七五年以来、アメリカ心理学会では、同性愛に対する固定観念・偏見を取り除く努力が続けられてきた。

 国際的にも影響力のあるアメリカ精神医学会により作成される精神障害の分類と診断の手引き(DSM)においては、一九七三年十二月、アメリカ精神医学会の理事会が同性愛自体は精神障害として扱わないと決議し、DSM - Ⅱの第七刷以降「同性愛」という診断名は削除され、代わって「性的指向障害」という診断名が登場しDSM - Ⅲにおいてはそれが「自我異和的同性愛」という診断名に修正された。これは、自らの性的指向に悩み、葛藤し、それを変えたいという持続的な願望を持つ場合の診断名である。しかし、この「自我異和的同性愛」という診断名も、同性愛自体が障害と考えられているとの誤解を生んだこと、右診断名が臨床的にほとんど用いられていないことなどから、一九八七年のDSM - Ⅲの改訂版DSM - Ⅲ - Rからは廃止された。

 世界保健機構で作成されているICD国際疾病分類の第九版であるICD - 9をアメリカ連邦保険統計センターが修正し一九七九年一月に発効したICD - 9- CMでは、「同性愛」という分類名が「性的逸脱及び障害」の項の一つとしてあげられていたが、ICD - 9の改訂版であるICD -10の一九八八年の草稿では「同性愛」の分類名は廃止され、「自我異和的性的定位」という分類名が用いられており、これについては、「性的同一性、性的指向に疑いはないが、もっと違ったものであればよいのにと願い、それを変えるための治療を求める場合がある。」と記述されている。同じく一九九〇年の草稿では、「自我異和的性的定位」の項に「性的指向自体は、障害と考えられるべきではない。」と記述されている。

 日本においても、精神科国際診断基準検討委員会によってわが国の診断基準の「試案」が作られ、そこにおいては種々の意見があったが、「同性愛」は「性障害」の診断名としては取り上げられず、「同性愛」は精神障害に入らないとの前提のもとに、参考項目に付加的分類名として残されるのみとなった。

 このように、心理学、医学の面では、同性愛は病的なものであるとの従来の見方が近年大きく変化してきている。

 ところで、従来同性愛者は、婚姻制度の枠組みの外におかれていたが、サンフランシスコ市では、平成三年二月から同性愛者のカップルの内縁関係を市が認定する制度が発足した。

 サンフランシスコ市でも同性愛者に対する嫌がらせ、暴行が起こり、同性愛者の自殺も問題となった。また、教育の場では、一般の生徒は、同性愛者を性的な存在としてしかとらえず、完全な人格を持ったものとしてはとらえない傾向があった。そこで、サンフランシスコ市では、右のように従前正当な認知を与えてこなかった同性愛者の生徒の教育を受ける権利を保障するため、一九八九年から、同性愛者の生徒のためのサポートサービスが取り組まれている。

 同種のサポートサービスは、ロサンゼルス市、サンディエゴ市でも取り組まれている。

 ―今から見ればとんでもなくニュース価値のある判決文ですが、九〇年代日本の大方の人は、そういうことにはほとんど興味がなかった。

 それはちょうど、一九六九年六月二十八日の夜からニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジで、ゲイたち数百人、数千人が三日三晩にわたってストーンウォールの〝解放区〞を作った時も、そこからちょっと離れたウォール街やミッドタウンではまるで何もなかったかのように普段の生活が続いていたのと似ています。世界の性的少数者の人権運動史上燦然と輝くこの暴動、反乱事件ですら、実は今でもアメリカ国内で(日本ではなおのこと)知らない人は多い。人は、自分に関係のあるものにしか興味を持ちません。「関心」とはそういう言葉です。

オールアメリカン・ボーイの憂鬱

 ところが一九八五年のアメリカに、一般人が「ゲイ」のことに急に関心を持たざるを得ない事件が起きたのでした。私はおそらくこれが、日本の「無関心」とアメリカの「関心」を分けた事件ではないかと思っています。もちろんそれ以前に、「関心」への下地は十分に準備されていたのですが。

 「一九八五年十月二日、ビヴァリーヒルズの自宅で、俳優ロック・ハドソンが朝九時ごろにエイズ関連の合併症で亡くなった」というニュースが世界を駆け巡ったのです。彼は五十九歳でした。

 彼はエイズで死亡した世界的有名人の初めての例となりました。身長百九十六センチ、黒い髪にやさしげな目、ロマンティックな低い声―彼は、最もエイズから遠い(すなわちゲイとは無縁の)「オールアメリカン・ボーイ(All-American boy /すべてのアメリカ人を代表するような男性)」という称号をほしいままにしていた人物だった(と一般には思われていた)のです。

 日本の芸能界なら誰に相当するでしょう。女性にも男性にも大人気の国民的青春スターだった昭和の石原裕次郎とか加山雄三とか、そのあたりでしょうか。今はメディアが細分化した分だけ人々の関心も細分化して、昔のような老若男女すべてを惹きつける国民統合的な「大スター」という人物を挙げられないのが残念なところですが。

 数カ月前から、病状や所在などに関してさまざまな噂や憶測は渦巻いていました。これ以上興味本位のゴシップをばらまかせておくことはできないと、八五年七月二十五日(死の六十九日前です)、ロック・ハドソンのエージェントがとうとう「エイズを発症している」と認めました。ところがその後でもしばらく、彼の罹患は「男性同性愛者以外0 0 でもエイズになる」という文脈で語られました。「オールアメリカン・ボーイ」の「異性愛性」を信じる、社会的喚起・啓発の一環として。当時の《ピープル》誌がハドソンの叔母リーラのコメントを引用しています(*7)。

彼がそう(ゲイ)だとは私たちは誰も一度も思ったことはありません。いつもなんともいい人(such a good person)だった。それだけです。

 けれど彼はゲイでした。
 《タイム》誌はこう書きました(*8)。

 先週、ハドソンがパリの病院でエイズによる重篤な病状で横たわっているとき、このオールアメリカン・ボーイは、長年にわたりずっと公にしてこなかった秘密を抱えていたということが明らかになった:彼はほぼ確実にホモセクシュアルだったのである(he was almost certainly homosexual)。

 なんともホモフォビック(同性愛嫌悪的)でスキャンダラスな書き方です。確かに一九八五年というのはアメリカでエイズ禍が拡大(全米死者数はその年一万二千五百二十九人を数えました)し、その〝元凶〞としてゲイ・コミュニティが槍玉に挙げられ、それゆえに宗教保守派に支持基盤を持つ当時の共和党大統領ロナルド・レーガンエイズを政治課題としてはまったく取り上げないままでいた、そんなホモフォビックな年でした。エイズ活動家たちの常套句は「誰か白人で金持ちのヘテロセクシュアルエイズになるまでマスメディアも政治家もエイズのことに振り向きもしない」というものでした。そこに白人で、裕福で、屈強な〝ヘテロセクシュアル〞のシンボルだったハリウッドスターがエイズに襲われたのです。しかも彼は(やはりハリウッドの俳優だった)レーガンの長年の友人で、保守的なバリバリの共和党支持者でした。彼の真実が露呈したことの衝撃は凄まじいものでした。

 サンフランシスコ・クロニクル》紙のジャーナリストだったランディ・シルツが一九八七年、エイズ禍拡大の真っ只中で大部の労作『And the Band Played On : Politics, People, and the AIDS Epidemic』(『そしてエイズは蔓延した』訳・曽田能宗/草思社/一九九一)を刊行しました。その本の最初の五年間のエイズ史の書き出しは「一九八五年十月二日、ロック・ハドソンが死んだ朝に、(エイズという)その単語は、西側世界のほとんどすべての家庭で普通に知られる言葉となっていた」でした。

「ゲイ」の変身、「女」たちの献身

 彼の死がアメリカの「世間」に与えた衝撃は二種類です。一つは、自分の知っている人物がエイズで死ぬという衝撃です(それまでの死者はすべてほとんど「他人」でした)。もう一つはそれに関連して、あんなに男らしいロック・ハドソンがゲイだとすれば、他の誰がゲイではないと言い切れるだろう、という、反語の形の衝撃でした。

 「ゲイ」は自分たちとは関係のない、どこか闇の世界の住人でした。「性のバケモノ」という話は「プロローグ」で説明したとおりです。そうした、これまで揺るぐことのなかったゲイに対する自分の認識が、ひょっとしたら間違っているのかもしれないという初めての疑義が世間の人たちの心によぎった……それはまさにこのロック・ハドソンの、スキャンダラスな報道に汚され、衰弱した姿を写真で晒され、尊厳も奪われた非業の死がもたらした衝撃の余波でした。

 ―私たちの周りには、私たちが気づかなかっただけで、ゲイやレズビアンであることをひた隠しにしている友だちや家族や同僚がいるのではないか? 私たちは気づかぬうちに、そんな友人知人たちにひどい言葉を聞かせていたのではなかったか? 私たちは彼ら/彼女らに対して、取り返しのつかないことをしてきたのではなかったか?―私のことをいつもやさしく大切に思ってくれていたあの人は、ひょっとしたらゲイだったのでは/レズビアンだったのではないのか?

 この時、エイズをめぐる潮目が変わります。同時に、ゲイに関する見方も変わり始めるのです。それらは不意に「自分に関係のあるもの」へと変貌する。

 もちろん依然として、「ロック・ハドソンも、うまく隠していたが結局は変態性欲の異常者だったのだ」という昔ながらの言説の引力は大きなものでした。それは主に保守的な男性層からの反応でした。けれど(これはどうもジェンダーロール=男女に期待される役割分担のステレオタイプを語るようで難しいのですが、敢えて記せば)主に(「共感性が強い」とされる)女性層の中から、ゲイ男性に対するこの〝ひどい仕打ち〞に関して、そうであってはならないという反発が生まれたように思います。ロック・ハドソンにとってのその筆頭は、彼と何度も共演し、アメリカのスイートハート(恋人)と呼ばれた女優で歌手のドリス・デイや、誰もが認める大女優エリザベス・テイラーでした。

 彼女たちはハドソンについて発言し、エイズについて(つまり間接的にゲイについて)語りました。エリザベス・テイラーが米国エイズ研究財団(amfAR = American Foundation for AIDS Research)の創設メンバーとなり(一九八五)、自らの名を冠した「エリザベス・テイラーエイズ基金」を創った(一九九三)のも、ハドソンの感染と死がきっかけでした。フェミニズムの台頭で七〇年代に袂を分かつことの多くなっていたゲイ・コミュニティとレズビアン・コミュニティが、多くレズビアン女性たちの方から再び歩み寄り始めたのも、そんな彼女たちがゲイ男性たちを看病するためのエイズ禍が契機の一つだったように思います。同様に、ハドソンの死の時期を境目に急激に増え始めたゲイ男性やエイズをめぐる数々の小説や映画やTVドラマ(NHKでもその後に放送された米NBC製作の『An Early Frost (早霜)』は、ハドソンの死から一カ月余り後、一九八五年十一月の放送でした)でも、多くゲイ男性の女友だちや母親、祖母、姉妹などの女性たちが理解と和解の橋渡し役を担うパターンが定着していきました。

「政治的正しさ」と「綺麗事」と

 忘れてならないことがあります。「ゲイ男性に対するこの〝ひどい仕打ち〞に関して、そうであってはならないという」言説が多く女性たちの中に生まれてきたのが、八〇年代の「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ=PC)」の風潮を土台にしていたということです。

 このPCという用語は初めは七〇年代にかけての学生運動新左翼フェミニストたちが、内輪のジョークのように使っていたものでした。仲間内で性差別あるいは人種差別的な物言いがあった時に、彼ら/彼女らは文化大革命の政治委員や紅衛兵のような言い回しで「同志よ、それはあまりポリティカリーにはコレクトではない!(Not very‘ politically correct’, Comrade!)」と言っていたそうです。

 けれど性差別、人種差別の問題は七〇年代を通して肥大する一方でした。そこにエイズ差別(を通したゲイ差別)が被さってきます。PCはその時、揶揄やジョークではない、命に関わる切実な運動になっていきます。そしてその切実さと重要性をすでに知っていたのが、マチズモ(男性主義)の横行するアメリカ社会の真っ只中にいた女性たちだったわけです(もちろんそうじゃない女性たちも多かったですが)。

 八〇年代のアメリカで九年にわたって大ヒットした大富豪一家の愛憎劇TVドラマ『ダイナスティ』で、ロック・ハドソンが主人公一家の妻クリスティにキスをする場面がありました。八四年のシーズンでした。そして翌八五年、ハドソンのエイズ発症が公のものになる―その際、ハドソンのキスがクリスティ役の女優リンダ・エヴァンスにHIVを感染させたかもしれないという疑問が持ち上がりました(もちろんキスなんかでHIVは感染しないということは今ではわかっています)。TVホストにそう質問されたエヴァンスは毅然として返します。「私は病気ではないし、私は何も恐れていません。いったいどこからそんな話が出てきたんですか?」

 この時のことを後に彼女は回顧録(『Recipes for Life: My Memories』未訳/二〇一六)で記しています。要約すれば―

情熱的なキスの代わりに、ロックはさっと唇を掠かするようなキスしかしてこなかった。そしてすぐに体を引いてしまう。何度やってもそうだった。業を煮やした監督が私の方から情熱的なキスをしてと言ったが、私はそれは「クリスティ」の役柄にそぐわないと言って断った。翌週に再撮影したときもロックのキスは同じだった。やがてロックのエイズが明らかになった。彼がどうしてキスをしてこなかったのか、私はその時そのわけを知った―。

 「思えばあのとき」とエヴァンスは書いています。「彼は懸命に私を守ろうとしていてくれたんだと思う。それを思うと感動で心が震える」と。

 彼女のこの言葉を綺麗事だと吐き捨てることは私にはできません。その時に「きゃー、怖い!」と喚かない矜持。そのプライドを「綺麗事」と言い換えるのは、ポリティカリー・コレクトを矮小化するトリックです。PCとは、八〇年代の米国で立ち上がりつつあった社会的弱者たちの言挙げを支える、切実で真剣な言説運動でした。それはのちに「アイデンティティの政治」として批判される先制攻撃の道具としてではなく、自衛のための装具として働きました。今でこそ「ポリコレ棒」とか「PC疲れ」とか「正義を振り回す少数派」とか非難されもしますが、そもそも我が物顔で「正義」の棒を振り回して「自分たち以外の者」を叩きまくったのは「宗教という絶対正義」を盾にした保守派(多数派)の人々の方でしたから、「ポリコレ棒」とはまさに逆に、そんな彼らの(数千年に及ぶ)先制攻撃に対する初めての正当防衛の道具、反撃の大義名分として機能したのです。たとえその後、それがある部分で「言葉狩り」の皮相へも流れたとしても。

大義名分としての「エイズ

 ワシントン・タイムズ》の保守派編集長ウェスリー・プルーデンは当時、ロック・ハドソンエイズにかこつけて「いまやエイズは、戦闘的ホモセクシュアルたちにとっては有名人の病に格上げされた」と皮肉たっぷりに書き記しました。これでまた喧しく騒ぎ立てるのだろう、という揶揄です。

 彼の予想どおり、ゲイ・コミュニティは社会の危機としてのエイズ対策を大義名分として「戦闘」していきます。「ゲイ」という個人的事情はカミングアウトに逡巡するのですが、「エイズ」のカミングアウトは政治対応を訴え社会危機を防ぎ対策予算を得るための、奨励されるべき立派な行いになったのです。かくして人々はエイズのカミングアウトを通して、あるいはエイズ患者/HIV陽性者支援活動への参加や関与や関心を通して、ゲイであることも間接的あるいは直接的に公にするようになってきました。

 ロック・ハドソンの悲劇が異性愛社会にもたらした啓示―「私たちの周りには、私たちが気づかなかっただけで、ゲイやレズビアンであることをひた隠しにしている友だちや家族や同僚がいたのではないか? 私たちは気づかぬうちに、そんな友人知人たちにひどい言葉を聞かせていたのではなかったか? 私たちは彼ら/彼女らに対して、取り返しのつかないことをしてきたのではないか?」という気づきの予感は、かくして時間をかけながらも確実に実感に変わっていきます。大統領のレーガンは友人だったはずのハドソンの死から二年後に、やっとエイズ対策を自分の政権の政治課題として演説の中で登場させます。それはエイズ患者たちも(そしてゲイたちもまた)人間なのだという、政治的な宣言の第一歩になりました―ロック・ハドソンの死は、世間を覚醒させる爆弾として機能したのです。
 

*1
タワー倒壊を意図し、爆弾を満載したヴァンが地下二階の駐車場で爆発、六人が死亡、千四十人以上が負傷したイスラム過激派によるテロ事件。駐車場四階層にわたって直径三十メートルの穴が開く威力だった。

*2
武装籠城したカルト集団が五十一日に及ぶ連邦司法当局との対峙の末に銃撃戦となり、出火する形で集団自殺。集団側は子ども二十五人を含む八十一人が死亡。

*3 
死者百六十八人、負傷者六百八十人以上という犠牲者を出した白人武装ミリシア民兵)による車載爆弾テロ事件。

*4
日本の新聞社では政治・経済部記事を硬派、社会部記事を軟派と呼ぶ。

*5
東京都の青少年育成施設。民間の青少年団体等が申請して使用。二〇〇五年二月に閉鎖。

*6
「auじぶん銀行」調べ(二〇二〇年八月二十五~二十八日、調査対象は、LGBTなど性的マイノリティ当事者と非・当事者のビジネスパーソン各五百人)では当事者が職場の同僚・上司に自分がLGBTであるとカミングアウトした人の割合が一七・六%。非当事者で自分の友人・知人にLGBTの人を知っている人は二一・四%(https://suits-woman.jp/kenjitsunews/163923/)。かなり増えてはきたが、アメリカでは二〇二〇年同様調査(各二千人対象)で、逆に四〇%の従業員がLGBTQを公表していないこと、うち二六%が公表したいと願っていること、などが明らかになった(https://www.bcg.com/publications/2020/inclusive-cultures-must-follow-new-lgbtq-workforce)。

*7
“How Rock Hudson’s Death Changed the Perception of AIDS” https://goodmenproject.com/featuredcontent/how-rock-hudsons-death-changed-perception-aids-jvinc/

*8
“Medicine: Rock: A Courageous Disclosure / Hudson spotlights the dilemma of gays in show business” http://content.time.com/time/magazine/article/0,9171,1048462,00.html