出版社立ち上げ(た)日記

ひとり出版社・人々舎の日記です。

私の顔は誰も知らない(『私の顔は誰も知らない』インべカヲリ★)

 なぜ多くの女性は、これほどまでに偽りの姿で生きているのだろう。いろんな女性から話を聞くなかで、そう思うことがよくある。いかにも普通を装って、あるいは違う自分を作り、本来のパーソナリティを隠している。でも考えてみれば、私も昔はそうだった。だから今、こうした写真作品を撮っているのだろう。そんなことをテーマに書いていこうと思う。

 私は写真家で、ホームページで募集した一般の女性を被写体に、ポートレート作品を撮っている。ほかの写真家との違いは、撮影前に被写体の女性から時間をかけて話を聞き、相手 を知ることから始めるところだ。これまでどんな人生を歩んできたのか、経験したことや感じたこと、考えたことを聞き取り、そこから写真のイメージを膨らませていく。人の心を掘 り下げるという作業は簡単ではないので、話を聞き始めると三時間くらいはすぐに経つ。

 ほとんどの女性は、長い時間をかけて自分の話をするという経験がないため、初めて人に打ち明けるという話も出てくるし、喋りながら自分の本音に気づくということもある。そう した過程を経て撮影に入るので、写真に写る姿も普段とは違う。どれくらい違うかというと、個展会場に本人が現れても、周囲の誰もそのことに気づかないということがしばしば起こりうるくらいだ。写真のなかで表現したい自分と、日常生活で見せている自分が、それほどに違うということだろう。

 なぜそうした写真を撮るのかと聞かれることがある。その答えは、私に限ったことではなく表現者全般に言えると思う。アーティストは、作品のなかで繰り返し自分のトラウマを表現するものだからだ。

 そう考えるようになったのは『記憶を消す子供たち』(レノア・テア/草思社/一九九五)という、抑圧された記憶を研究している精神科医の書いた本を読んだことがきっかけだ。このなかに、あるミステリー作家が、幼少期の強烈なトラウマ体験を、無自覚のうちに繰り返し作品のなかに登場させていたという実例が出てくる。しかも当人は、体験の一部を完全に忘れていたにもかかわらずだ。

 私はそれを読み、あらゆる表現衝動の根っこにはトラウマが潜んでいるのだろうと解釈した。それは自分自身や、周りの表現者を見ていてもそう思う。作品のなかで絶対的にこだわる部分、その表現でなくては自分の作品とは言えないもの、というのが作家にはある。そうした衝動の根っこには、抑圧された記憶が潜んでいるのだろうと私は思う。

 では自分のトラウマとは何なのか。と考えれば、おそらくそれは子ども時代にひたすら周囲に合わせてわかりやすい人間を演じようとし、そうしなければ生きていけなかったことだと思う。この世の中に私の頭のなかを理解できる人間なんていると思わなかったし、受け入れられるとも思わなかったし、自分の主張を話すなんて考えたこともなかった。そういうわけで、まずは自分の話から書いてみたい。

 小学生のころの私は、まったく勉強のできない子どもだった。通知表はほぼオール二で運動神経も悪く、皆が当たり前に理解していることを私だけ理解できないことが多々あった。例えばクラス全員が、ほとんど教わらなくても引き算を理解していることの意味がわからなかった。先生が作ったオリジナル表記のサイコロを使った算数のゲームは、皆は楽しく遊んでいるのに私だけルールが理解できず何をしているのかわからない。天体観測は、空に星があるというだけで、星座という概念も、判別がつくことの意味もわからなかった。イニシャルを教わったときは、イニシャルというものがこの世に存在する理由がわからずパニックになった。とにかくこの世界のありとあらゆるルールについていけなかったし、目の前で繰り広げられることのほとんどに興味が持てなかった。私はきっと皆とは違う種類の人間なんだろう、そう思っていた。

 学校教育で評価基準となるすべてが最下位レベルで劣っていて、その上、子どもが遊ぶ鬼ごっこのような遊びも、何が楽しいのかさっぱりわからなかった。そもそも、自分が子どもでいる、ということが面白くない。絵を描いても大人のように上手くは描けないし、一人でどこかへ出かけることもできない。何をしても誰と話しても面白くなくて、ひたすら毎日が退屈だった。それでも一人でいるのは恥ずかしいので友だちは作る。そのためには、ほかの子どもと同じような子どもでなくてはならない。皆が楽しいと思っているものを楽しいと感じ、笑うタイミングで笑い、驚くタイミングで驚き、皆が言いそうなことを言う。いつでも周りのリアクションを見ながら相手に合わせ、適当にやり過ごしながら、早く子ども時代が過ぎろ! と願いながら中学までを過ごした。

 高校生になると、時代は女子高生ブーム真っ盛りだった。それ以前は、高校生など子どもだと思われていたはずなのに、あるときから急に「女子高生」が注目され始め、もっとも女として魅力がある年齢とみなされるようになったのだ。私が入学した一九九六年は、まさに「援助交際」という言葉が流行語大賞のトップテンに入った年でもある。高校の「制服」に、女としての付加価値が付き、女子高生というだけで値段がつく。女子高生の記号は、短いスカートにルーズソックス、ガングロ、茶髪語尾を上げた喋り方で、彼女たちはコギャルと呼ばれていた。ブームというのは恐ろしいもので、当時は社会全体の同調圧力で女子高生のイメージが固められていた。女子高生は、ブランド好きで、ヴィトンのバッグ欲しさに援助交際をしており、将来のことなど考えない。今の高校生とは比べものにならないほど見た目も派手だったし、世間がイメージする「女子高生」を体現している女子が、社会でもっとも価値のある存在だった。彼女たちは、ヒエラルキーの頂点にいることを自覚していたから、社会人の男女より、はるかに自信を持って渋谷を歩いていたし、大人の男性たちは怯えるような目で女子高生を見ていたように思う。そして、世間のイメージから外れた「普通の女子高生」は、メディアから完全に無視され、いないことにされていた。

 私は校則の厳しい都内の私立女子高に通っていたので、そこまで派手な格好をしている生徒はいなかったけれど、それでも日焼けサロンで肌を黒く焼いた女子も、放課後になると厚化粧をしてルーズソックスに履き替える女子も当たり前にいた。

 私はというと、当然そうした女子高生文化に興味はなく、プリクラもカラオケも友だちとの会話も何ひとつ面白くなく、相変わらず何をしても退屈だった。友だちはコギャルではなく普通の女の子たちだったが、それでもほかの子が当たり前に楽しんでいる行動が、私にはただの消費に感じて面白くない。私の家庭は校則に従って高校まではアルバイト禁止だったので、外に世界を広げることもできない。何も生み出さない毎日が耐えられず、何をしたら楽しくなるのか見当もつかなかった。社会の作った女子高生にはならないぞと気負うあまり、流行り言葉を一切使わず、ルーズソックスは一度も履かず、当時、池袋西口にあった芳林堂書店本店の「心理」の棚の前で一人本をあさっていたけれど、だからといって晴れやかな気持ちには少しもなれない。友だちと喋って瞬間的な「楽しい」は感じても、常に虚無感が付きまとった。毎日、毎日、自分と相反する価値観のなかに放り込まれていれば、頭が狂ってくるほうが健全な反応だ。しかもその価値観は教室を飛び越えて、社会全体からも向けられ ている。

 そのストレスは私だけではなかったと思う。実際、高校のクラスメイトのなかには、コギャルばかりいる女子大に進学したことが原因で精神不安定になって中退した子もいたし、コギャルの集団を見ただけで悲鳴を上げて帰ってしまうほど拒否反応を示していた子もいた。大量生産されたコギャルと女子高生が絶対的な価値で、その基準でしか自分を見られないという状態は地獄だったと思う。しかも大人は「今が人生で一番楽しいときだよ」とプレッシャーをかけてくる。まるで青春時代を楽しめない人間は一生後悔するぞと言わんばかりだ。

 あれが好き、これが知りたいと自分から好奇心を持つ前に、「人生を楽しみたいなら、これに興味を持ちなさい」「こういう人間になりなさい」と先に提示されてしまうのは恐ろしいことだ。情報にさらされすぎて、ほかの選択肢が完全に見えなくなる。思春期であればなおさらだ。自分の感性で生きるということは、高度消費社会で本当に難しい。だから、二十年経った今でも、相変わらず「個性」とか「ありのままの自分」という言葉がもてはやされているのだろう。

 高校を卒業した私はその後、短大生となるが、自由度が広がって何かが変わるかと思ったら何も変わらないことに愕然とした。相変わらず何をしても、誰と話しても楽しくない。この世界は何かが違う、自分はほかの人間とは決定的に何かが違うという気持ちがぬぐえない。

 学校はクリエイティブ系の学科だったけれど、それでも私は馴染めなかった。映画も小説も、他人の作り話にしか思えなかったし、スポーツやオリンピックは他人の祭りにしか感じなかった。アニメや漫画オタクの集団は、ものを買うことで自己主張している人にしか見えなかったし、演劇や音楽やサブカルも、そこに属する一塊の記号にしか見えなかった。パッケージ化された女子高生と何も変わらない。

 都心のショッピングビルには、どのメーカーでもシーズンごとにほぼ同じデザインの服が並び、若者は選択の余地なくそれを買っていく。一年経てばまたその年の流行が入れ替わり、皆で同じデザインの服に買い換える。よく外国人から「日本の女の子はみんな同じ格好をしている」と揶揄されるけど、同じ服しか売ってないのだから仕方ない。流行に抗おうとすれば、質の高いものを選ばなければいけないから余計にお金がかかるのだ。

 皆が同じ服を着て、同じテレビを見て、同じゲームなり音楽なり映画なりを見て、同じ飲食店に行列を作って、同じ話題で喋っている。この世の中で趣味と呼ばれるもののほとんどは、ただの消費活動にしか見えなかった。それの何が楽しいのかさっぱりわからなかった。ある日ふと、相田みつをのパクリみたいな詩をデザインした手帳が、店頭で大量販売されているのを見たとき、こんな世界で生きていくのは心底嫌だと思った。生産者側に若者の消費行動をコントロールしようとする意図がありありと見えたからだ。生きるということは、延々繰り返される消費活動なのか。人はものを買うことでしか人間になれないのか。別に相田みつをのパクリに失望しているのではなく、逃れられないシステムをそこに見て絶望したのだ。

 当時私は、一人でビデオカメラを持って映像制作をしたり、遊び程度に写真を撮ったりしていたけれど、周りにいるアート志向の人間と一緒にいても何も共通点を見つけられなかった。彼らは何の抵抗もなく健全な精神状態で、話題の映画を観たり、本を読んだりテレビを観たりしている。けれど私には、情報そのものがストレスでしかなかった。少しでも何かの影響を受けて自分が殺されていくのが嫌だった。自分の価値観を固定するまでは、誰にも支配されたくない。メディアによる情報をなるべくシャットアウトして生活していたが、当然その考え方は、世間の常識と百八十度違うものだ。「クリエイティブなことをしたいなら、多くの映画を観て、多くの本を読まなきゃいけないよ」と忠告される。それが十人中十人にとっての正解だった。

 友だちという概念も嫌いだった。友だちというのは、定期的に集まって一緒に消費活動するプレイにしか思えなかった。そのことに何の意味があるのだろう。昨日と今日を比べて進化がない、発展していかない日々が耐えられなかった。

 このころから私は友だちと群れるのを止め、一人で行動するようになっていたけれど、相変わらず人前では、自分が考えていることなんて話さなかったし、ほかの人と同じような人間を演じていたし、皆が言いそうなことばかり言っていた。行く場所によってキャラクターを変えていたし、どれが本当の自分でもなかった。

 その後、短大を卒業した私は、編集プロダクションで雑誌の編集者として働くことになった。就職活動などしていなかったけれど、たまたま求人を見つけ、三日麻疹にかかって熱が下がった翌日、フラフラになりながら私服で面接を受け、朦朧とした頭で適当な原稿を書いたら、なぜか受かったのだ。

 そこは社長とスタッフ四人ほどの小さな会社で、主に男性誌を中心とした雑誌記事を作っていた。編集といっても書く仕事が多く、ライター志望者の集まりのようなものだ。給料十三万円で、初日からいきなり原稿を書くことになるほど忙しく、徹夜や土日出勤は当たり前。仕事のやり方は教えてくれず、何をするのが正解なのかもわからないまま仕事が飛んでくる職場だった。私と同時期に入った男性二人のうち一人は、一週間で「精も根も尽き果てた」と置手紙を残して逃げてしまった。社長は残ったもう一人の男性に期待をかけていたけれど、その男性も半年ほどで辞めてしまった。私は、お茶の出し方も、タバコの買い方も、地図の見方も、電話の受け答えもわからず、毎日怒鳴られてばかりいた。テレビを見ないので、芸能人の名前も、世の中で何が流行っているかもわからない。一生懸命、普通の人のように振舞おうとするが、そのことでかえって怒られる。「才能ないなら死んじまえ!」、「ほかの人間と同じことしかできない奴はいらない」など、握り潰した紙を頭に投げられたり、ゴミ箱を蹴られたりしていた。けれど私は逆に、その言葉にえらく感動していた。学校で強制されていた価値観と真逆だったからだ。他人と違うことが求められる世界なんて、天国のようだ。

 しかも、それまで家では門限があったのに、0時を過ぎても仕事が終わらないおかげで親から何も言われない。夜型の私は、深夜に一人で街を歩けることが嬉しくてしょうがなかっ学生のころは、ことあるたびに大人から、「学生時代が一番楽しい」「仕事は大変だよ」などと言われていたけれど、とんでもない嘘をつかれていたもんだ。こんなことならもっと早く仕事していればよかった。学生時代なんて二度と戻りたくない、そう思った。

 しかし、社長はそんな私を自主退職させたくてしょうがなかったらしい。これは後から聞いた話だが、三人採用して二人辞めさせ、優秀な一人を残すという計算だったようなのだ。ところが、もっとも即戦力のない私が残ってしまい、しかもなかなか辞めない。そのため一生懸命、嫌がらせをしていたらしい。けれど私は、どんなに理不尽なことで怒鳴られてもキラキラしていた。今までモノクロだった世界が色鮮やかに見えて、毎日が充実していた。

 けれど八カ月が経ったとき、社長は頭を抱えながらこう言った。「インベさんにこの業界は向いてない。方向転換は早いほうがいい」  そして、いつの間にか辞表を書くよう誘導されていた。「普通の人が何を考えているかわからない人には、この仕事は難しい」とも言われた。

 仕事がなくなった私は完全に開き直った。すべての能力が平均以下で、特技というものを持っていない私は、文章を仕事にするくらいしか思いつかなかったからだ。この世でできることがなくなった以上、もう何をしたっていいじゃないか。しかも、それまでは自分が最底辺だと思っていたのに、世の中には私より仕事ができない人がいるという信じられない事実まで知ってしまった。もう怖いものは何もない。それまで、自分の創造する世界は誰にも理 解できないだろうと思っていたけれど、それを見せることに抵抗はなくなっていた。そうし て始めたのが写真だった。

 そのころの私は、自分が持っている自己イメージと、人から見た他者イメージに大きく開きがあって、そのことが酷くストレスだった。一人鏡の前で見せる私の顔は誰も知らない。私が頭のなかで考えていることは誰も知らない。それまでの二十一年間、周りに合わせながらやり過ごしてきた私は、一眼レフカメラの使い方を覚えたことをきっかけに、衝動のままセルフポートレートを撮り始めた。たまにモデルを使って撮影することもあったけれど、そこには自分を投影していた。するとこの写真があっさりと周りに評価されてしまったのだ。人に見せるたび褒められ絶賛される。そんな経験は、今までの人生ではありえないことだった。

 そのうちに、自分の人生よりも他人の人生のほうがはるかに面白いことに気がついた。映画や小説やメディアを通した情報ではなく、目の前のリアルな存在が一人ひとり違うストーリーを持って私の前に現れる。写真を撮るという目的のもとに、好きなだけ相手の人生を聞けるという状況は、撮影よりもはるかに楽しい作業だった。 そうしてわかったことは、この社会には、かつての私と同じように擬態して生きている女性があまりにも多いということ。「他人には理解されないだろう」と考えて、誰にも話していないことを持っていること。しかもそれは、普段は自己主張が少なかったり、まっとうに 生きているように見えている女性ほど、内面との落差が凄まじい。

 多くの女性は、社会に適応して他者とコミュニケーションをとるために、いかにもその辺にいそうな人間に擬態していたのだ。

はじめに(『私の顔は誰も知らない』インべカヲリ★)

 「この本に出てくる女性たちは、どんな服装が多いですか?」

 タイトルについて悩んでいるとき、打ち合わせの席でブックデザイナーの吉岡秀典さん(セプテンバーカウボーイ)から、そんなことを聞かれた。私は考えるまでもなく、こう答えた。

 「普通です。その時々で流行っている、女性らしい服。『これを着ておけば普通の人に見られる』とわかっていて、選んでいる人が多いです」

 言ったあと、そんな言葉がスラスラ出てくる自分に驚いた。実際に、何人かの女性たちから聞いた台詞であり、過去の私自身のことでもある。が、改めて言葉にすると滑稽だ。どうして私たちはこうも、〝普通の人に見られる〞ことを意識してしまうのだろう。
 しかし、その答えにインスピレーションを得た吉岡さんは、タイトル文字が外見を装うかのように、ブックカバーを外すと別の姿が見えてくるデザインを考案してくれた。これこそまさに、本書のテーマといえる。
 もちろん服装のことだけを言っているのではない。『私の顔は誰も知らない』とは、社会に適応することを最優先するあまり、本来のパーソナリティが完全に隠れてしまった過去の私であり、似たような経験を持つ、多くの女性たちを表した言葉だ。

 情報過多な時代に〝らしさ〞から逃れることは難しい。こうして「はじめに」を書いている二〇二一年七月の現在も、ネットを開けば、性的な女性モデルの写真を使った青年会議所公開討論会のチラシが物議を醸している。アンチフェミニストたちは、現象だけを見て「この程度で騒ぐな」と言う。しかし、根本の問題は、日常で目にするこうした表現の数々から、女性は外見を使って男性を楽しませる存在であるというメッセージを受けとってしまうことだ。人として対等に生きる土台が、無自覚のうちに奪われてしまうのである。
 これはフェミニズムの問題に限らない。学校教育では異端が排除され、社会に出れば、常識的であることを求められる。外から入ってくる価値観に振り回され、偽りの自分でしか生きることができなくなってしまう。自分の発言を黙殺し、まったく違う人間を演じることが当たり前になってしまうのだ。

 本書は、二〇一九年五月から二〇二〇年八月にかけて、誠文堂新光社のWEBマガジン『よみもの.com 』にて連載した『生きるということは、延々繰り返される消費活動なのか』を、大幅に加筆修正したものだ。
 当初は、私自身のエッセイがメインになるはずだったが、写真家としての私の日常はとにかくいろんな女性と会う機会が多い。撮影でも会うし、個展に来てくれたお客さんとの出会いもある。不思議なことに、〝なぜ女性は偽りの姿で生きている人が多いのか〞というテーマで書き始めると、どんな女性と会っても、そのテーマを軸に語れてしまうことに気が付いた。結果的に、女性たちへのインタビューが半分を占めたが、個人の集合体こそ、社会である。多くのエピソードを通して、初めて見えてくるものがあるのではないか。
 連載の途中で、新型コロナウイルスパンデミックが始まったため、最初の緊急事態宣言中の話など、今となっては懐かしい話も含むが、当時の出来事はそのまま掲載することにした。
 本書を通して、私たちが生きる社会がどういうものか、少しでも考えるきっかけになれば嬉しい。

インべカヲリ★『私の顔は誰も知らない』取り扱い書店

インベカヲリ★『私の顔は誰も知らない』が一般発売となりました。
取り扱い書店さんのリストになります。
★印がある書店さんは特典付きです。
最終更新日5月24日

■北海道
紀伊國屋書店 札幌本店
MARUZEN&ジュンク堂書店 札幌店
函館 蔦屋書店
江別 蔦屋書店

岩手県
BOOKNERD ★
ジュンク堂書店 盛岡店
蔦屋書店 盛岡店

宮城県
ボタン ★
くまざわ書店 エスパル仙台店

福島県
フルハウス ★
ジュンク堂書店 郡山店

群馬県
戸田書店 藤岡店

■埼玉県
ブックファースト ルミネ川越店
丸善 桶川店

■千葉県
くまざわ書店 ペリエ千葉本店
喜久屋書店 松戸店
丸善 津田沼
柏の葉 蔦屋書店

■東京都
雑貨と本gurui ★
今野書店 ★
タコシェ ★
本屋イトマイ ★
Amleteron ★
ROUTE BOOKS ★
SUNNY BOY BOOKS ★
マルジナリア書店 ★
Readin’ Writin’ BOOK STORE ★
古書ビビビ ★
本屋TITLE ★
本屋ロカンタン ★
BREW BOOKS ★
twililight ★
紀伊国屋書店新宿本店 ★
模索舎 ★
NENOi ★
百年 ★
SPBS TOYOSU ★
本屋ligthouse 幕張支店 ★
書泉ブックタワー
六本木 蔦屋書店
NET21隆文堂 西国分寺
増田書店
啓文堂書店 三鷹
代官山 蔦屋書店
MARUZEN&ジュンク堂書店 渋谷店
HMV&BOOKS SHIBUYA
青山ブックセンター 本店
SHIBUYA TSUTAYA
NADiff a/p/a/r/t 
ナディッフバイテン
ミズ・クレヨンハウス
大盛堂書店 駅前店
SPBS
くまざわ書店 武蔵小金井北口店
くまざわ書店 IY武蔵小金井
ブックファースト 新宿店
書泉芳林堂書店 高田馬場
ブックファースト ルミネ新宿店
くまざわ書店 東京オペラシティ
新栄堂書店 新宿パークタワー
文禄堂 早稲田店
NET21伊野尾書店
ブックショップ
NET21今野西荻窪
文禄堂 荻窪
文禄堂 高円寺店
あゆみBooks 杉並店
サンブックス浜田山
二子玉川 蔦屋家電
本屋B&B
啓文堂書店 下高井戸店
山下書店 世田谷店
丸善 お茶の水
東京堂書店 神田神保町
ブックファースト アトレ大森店
くまざわ書店 グランデュオ蒲田
八重洲ブックセンター 本店
誠品生活日本橋
丸善 日本橋
銀座 蔦屋書店
銀座堂書店 朝日新聞本社店
ブックファースト 中野店
はた書店
紀伊國屋書店 小田急町田店
くまざわ書店 調布店
中央大学生協 多摩店大学
ジュンク堂書店 吉祥寺店
ブックスルーエ
啓文堂書店 吉祥寺店
東京大学生協 本郷書籍部
NET21往来堂書店 千駄木
Pebbles Books
ジュンク堂書店 池袋本店
三省堂書店 池袋本店
東京大学生協 駒場書籍部
NET21恭文堂学芸大学店
ジュンク堂書店 立川高島屋
オリオン書房 ノルテ店
PAPER WALL エキュート立川店

■神奈川県
黄金町アートブックバザール ★
くまざわ書店 鶴見店
ブックファースト 青葉台
丸善 ラゾーナ川崎
くまざわ書店 横須賀店
くまざわ書店 大船店
たらば書房
湘南 蔦屋書店
ジュンク堂書店 藤沢店

■長野県
栞日 ★

新潟県
ジュンク堂書店 新潟店
知遊堂 三条店

富山県
ツタヤブックストア 藤の木店
文苑堂書店 富山豊田店
BOOKS なかだ 掛尾本店
BOOKSなかだ 魚津店

■石川県
金沢ビーンズ明文堂

静岡県
ひばりブックス
走る本屋さん 高久書店
フェイヴァリットブックス L
大垣書店 イオンモール富士宮

■愛知県
本・ひとしずく ★
TOUTEN BOOKSTORE ★
ON READING ★
ちくさ正文館書店
三省堂書店 名古屋本店
ジュンク堂書店 名古屋栄店
七五書店
名古屋みなと 蔦屋書店
本の王国 岡崎店

京都府
誠光社 ★
レティシア書房 ★
恵文社 一乗寺店 ★
京都大学生協 書籍部ルネ
ホホホ座
丸善 京都本店

大阪府
Calo Bookshop & Café ★
FOLK old book store ★
blackbird books ★
ジュンク堂書店 近鉄あべのハルカス
梅田 蔦屋書店
ジュンク堂書店 大阪本店
NET21清風堂書店 梅田店
MARUZEN&ジュンク堂書店 梅田店
ジュンク堂書店 難波店
丸善 高島屋大阪店
関西大学生協 書籍店大学

兵庫県
草地家 ★
1003 ★
ジュンク堂書店 三宮駅前店
ジュンク堂書店 三宮店
喜久屋書店 北神戸店
ジュンク堂書店 姫路店

三重県
ブックハウスひびうた ★

奈良県
喜久屋書店 大和郡山
とほん

岡山県
ながいひる ★
喜久屋書店 倉敷店

広島県
MARUZEN 広島店
エディオン蔦屋家電

香川県
なタ書 ★

愛媛県
ジュンク堂書店 松山三越

■福岡県
本と羊 ★
ジュンク堂書店 福岡店
文喫 福岡天神
六本松 蔦屋書店
ブックセンタークエスト 小倉本店

熊本県
橙書店 ★
mychairbooks ★
長崎書店

長崎県
ひとやすみ書店 ★

沖縄県
くじらブックス ★
ジュンク堂書店 那覇

『私の顔は誰も知らない』インべカヲリ★ 特典付き先行販売書店さん

ただいま絶賛先行販売中です。

■特典概要
「男女におけるコミュニケーションの違い」と題した、書き下ろしミニ冊子(A6:文庫サイズ/中綴じ/8P/約2000字)

写真家として被写体の「心」に迫り、ノンフィクションライターとして取材対象の「心」に迫るインべさんの近刊『家族不適応殺 新幹線無差別殺傷犯、小島一朗の実像』では男性(犯罪者ではありますが)に迫り、本書が女性に迫る対を成す本となりました。先行販売の特典では、両者の「心」を書き留めることに成功したインべさんが、男女の違いについて書き下ろしました。

※最終更新日5月13日

ボタン(宮城・仙台)

BOOKNERD(岩手・盛岡)

フルハウス(福島・南相馬

雑貨と本gurui(東京・千駄木

今野書店(東京・西荻窪

タコシェ(東京・中野)

本屋イトマイ(東京・ときわ台

Amleteron(東京・高円寺)

ROUTE BOOKS(東京・上野)

SUNNY BOY BOOKS(東京・学芸大学)

マルジナリア書店(東京・府中)予約サイト

Readin’ Writin’ BOOK STORE(東京・田原町

古書ビビビ(東京・下北沢)

本屋TITLE(東京・荻窪

本屋ロカンタン(東京・西荻窪

BREW BOOKS(東京・西荻窪

twililight(東京・三軒茶屋

紀伊国屋書店新宿本店(東京・新宿)

模索舎(東京・新宿)

NENOi(東京・早稲田)

百年(東京・吉祥寺)

SPBS TOYOSU(東京・豊洲

本屋ligthouse 幕張支店(東京・幕張)

黄金町アートブックバザール(神奈川・横浜)

栞日(長野・松本)

本・ひとしずく(愛知・名古屋)

TOUTEN BOOKSTORE(愛知・名古屋)

ON READING(愛知・名古屋)

ブックハウスひびうた(三重・津)

草地家(兵庫・あわじ)

1003(兵庫・神戸)

Calo Bookshop & Café(大阪・大阪)

FOLK old book store(大阪・大阪)

blackbird books(大阪・豊中

誠光社(京都・河原町

レティシア書房(京都・烏丸御池

恵文社 一乗寺店(京都・一乗寺

なタ書(香川・高松)

ながいひる(岡山・岡山)

ひとやすみ書店(長崎・長崎)

橙書店(熊本・熊本)

mychairbooks(熊本・熊本)

 

 

インべカヲリ★著『私の顔は誰も知らない』 特典付き先行発売書店さま募集のお知らせ

書店のみなさま

人々舎から2冊目の書籍、インべカヲリ★著『私の顔は誰も知らない』を5月16日(月)取次搬入(鍬谷書店)で刊行いたします。新たな試みとしまして、特典をつけた先行販売を行いますので、先行販売いただける書店さまを募集いたします。

■書籍概要
『私の顔は誰も知らない』インべカヲリ★
定価:本体 2200円[税別] 四六判・並製 380頁 束幅2.2センチ
文芸エッセイ/ジェンダーフェミニズム
5月16日(月)取次搬入(鍬谷書店)
"なぜ多くの女性は、これほどまでに偽りの姿で生きているのだろう"
膨大な数の女性の「個」に迫りポートレートを撮影してきた写真家の、初エッセイ&インタビュー集。被写体や女性たちへのインタビューと、著者自身の語りを通して、多くの女性が偽りの姿で生きざるを得ない、歪な社会構造を炙り出し、女性にとっての、ひいては人間にとっての幸福とは何なのかを考える。

インべカヲリ★
1980年、東京都生まれ。写真家。13年に出版の写真集『やっぱ月帰るわ、私。』(赤々舎)で第39回木村伊兵衛写真賞最終候補に。18年第43回伊奈信男賞を受賞、19年日本写真協会新人賞受賞。写真集に、『理想の猫じゃない』(赤々舎/2018)、『ふあふあの隙間』(①②③のシリーズ/赤々舎/2018)がある。ノンフィクションライターとしても活動しており、著書に『家族不適応殺 新幹線無差別殺傷犯、小島一朗の実像』(KADOKAWA/2021)がある。本書は初のエッセイとなる。

書籍詳細はこちら

■先行販売概要
4月22日(金)納品分から、ご注文冊数と同数の先行販売特典とあわせて順次直納品いたします。
※一般発売は、5月16日(月)取次搬入となります。
※先行発売注文の〆は4月21日(木)とさせていただきます。

〈最小ロット3冊から〉
・直接取引の書店さま
直接納品いたします。買い切り65%、送料弊社持ち、振込手数料御社持ち、翌月末精算でお願いいたします。

・取次経由の書店さま
直接納品いたします。仮伝票兼受領証を同梱いたしますので、精算は取次経由でお願いいたします。

■特典概要
「男女におけるコミュニケーションの違い」と題した、書き下ろしミニ冊子(予定:A6/中綴じ/8P/約2000字・原稿用紙5枚)
本書の著者インべカヲリ★さんは写真家です。表面をなぞるのではなく、内面に焦点合わせて撮影する手法で、写真業界及び女性から圧倒的な支持を得ています。ノンフィクションライターとしても優れた仕事をしていて、近刊『家族不適応殺 新幹線無差別殺傷犯、小島一朗の実像』(KADOKAWA/2021)は業界内外から話題となっています。写真とノンフィクションの、両者の仕事に共通することは、対象の「心」に迫ることです。写真家として被写体の「心」に迫り、ノンフィクションライターとして取材対象の「心」に迫ります。結果的に、前者が男性(犯罪者ではありますが)に迫り、本書が女性に迫る対を成す本となりました。先行販売の特典では、両者の「心」を書き留めることに成功したインべさんが、男女の違いについて論じます。

■お問合せ
info@hitobitosha.com
03-5356-9784
人々舎 樋口まで

ご連絡いただきましたら、仮の原稿をお送りいたします。
どうぞよろしくお願いいたします。

人々舎 樋口聡

『愛と差別と友情とLGBTQ+』全国取り扱い書店リスト

現在のお取り扱い書店さんです。このリストは更新していきます。

①直接取引書店
※11月16日更新

岩手県
BOOKNERD

宮城県
ボタン

茨城県
ミセルくらしPUNTO

群馬県
ふやふや堂(小さな本やさん) 

東京都
模索舎
SUNNY BOY BOOKS

百年
古書ビビビ
ひるねこBOOKS
往来堂書店
古書ほうろう
ブックギャラリーポポタム
Amleteron
YATO

神奈川県
ポルベニールブックストア

石川県
古本LOGOS
石引パブリック

愛知県
ON READING
本・ひとしずく


大阪府
FOLK old book store
葉ね文庫

blackbird books
TOGO BOOKS nomadik


和歌山県
らくだ舎

京都府
誠光社
レティシア書房
恵文社 一乗寺店

兵庫県

1003
草地家

岡山県
ながいひる
451ブックス

香川県
なタ書

愛媛県
こりおり舎

福岡県
taramu books & cafe

熊本県
橙書店

沖縄県
くじらブックス

webショップ
やまね洞
loneliness books


②取次経由書店
とくに在庫がある書店さんには★がついています。
※10月5日更新

北海道
喜久屋書店 帯広店
北海道大学生協 書籍部クラーク店 ★
MARUZEN&ジュンク堂書店 札幌店 ★★
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ジュンク堂書店 盛岡店

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三省堂書店 池袋本店 ★
ジュンク堂書店 池袋本店 ★★
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『愛と差別と友情とLGBTQ+』第一章 「ロック・ハドソン」という爆弾 公開

誰も知らない、日本史上画期的なゲイ差別裁判

 一九九三年二月二十三日、大雪積もるJ・F・ケネディ空港に下り立って、新聞社特派員としての私のニューヨーク生活が始まりました。それから二十五年近くもここに住み着くことになるとは予想もせずに。

 ニューヨーク特派員の仕事は国連本部(特に安全保障理事会)および全米の社会ニュースの取材です。政治や経済ネタはワシントン総局がカヴァーしています。なのでニューヨークには社会部畑の記者が赴任することが多い(ウォールストリートがあるので経済部記者を送る社もあります)。

 赴任して三日目の二月二十六日の正午過ぎ、八年後に起きることになる「9・11」の伏線と言うべき「世界貿易センター地下駐車場爆破事件(*1)」が起きました。そればかりか四月十九日にはテキサス州ウェイコで「ブランチ・ダヴィディアン事件(*2)」が起こり、二年後の同日には「オクラホマ連邦政府ビル爆破事件(*3)」が発生したりと、私の赴任期には大事件や大事故が立て続きに起きました。おまけに国連はブトロス・ブトロス・ガリが事務総長で、「平和への課題」という提言の下に国連による世界和平への積極介入が行われた時代でもあり、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦の国連平和執行部隊取材でクロアチアマケドニアに入るなど、大忙しの三年間でした。

 その間に、それでも日課のように取材しようとしたテーマが「エイズ」でした。八〇年代に始まったエイズ禍はニューヨークでも(あるいはニューヨークだからこそ)まだまだ猛威を振るっていました。日本ではゴシップやスキャンダルの類いで扱われることの多かったエイズ関連のニュースは、アメリカでは連日硬派・軟派*4ともどもトップの扱いでしたし、社会全体が(子どもたちへの教育も含めて)一丸となって取り組んでいる問題でもありました。映画、小説、TVドラマ、さらにはブロードウェイまでがエイズ抜きでは語れませんでした。そしてエイズ問題を通じて、私はおびただしい量、おびただしい分野、おびただしい人間の、ゲイ関連情報に触れることになりました。

 それは生まれて初めての「ゲイ」情報のシャワーでした。日本では決して得られることのなかった硬軟とりまぜての情報の大波でした。

 私は、この九〇年代半ばに、ほとんど英語情報によって「ゲイ」というものを知り始めました。

 もっとも、ニューヨークに来る前の日本には「ゲイ」の情報がまったくなかったかといえばそうではありません。
 私の渡米二年前の一九九一年に、日本でも初の画期的なゲイ差別訴訟「府中青年の家事件」裁判が始まっています。これは「動くゲイとレズビアンの会(通称「アカー」OCCUR)」というゲイの人権団体が東京都を相手取って起こした損害賠償訴訟で、「府中青年の家(*5)」で研修合宿に入ったアカーのメンバーたちが、同性愛者のグループであることを理由に同じ日に利用した他団体から差別的嫌がらせを受けたことに端を発した事件です。アカーは青年の家の職員側に善処を求めましたが、「家」側は逆にアカーの存在こそが問題の引き金となったとして、あろうことか以後のアカー側の施設利用を拒否したのでした。

 裁判は一審、二審ともアカーの勝訴に終わりましたが、この画期的な判決は、当時の日本で大きく取り上げられることはあまりありませんでした。 

 しかしアメリカでは違いました。一審の東京地裁での勝訴があった一九九四年は「ストーンウォール・インの暴動」から二十五周年を迎える記念すべき年でした。私のニューヨーク赴任二年目でもあったその年の六月末、ニューヨークの「ゲイ&レズビアン・プライド・パレード」に参加しようと、そのアカーの(当時の)若者たち二十数人がはるばるやってきました。この時、彼ら彼女たちが着ていたお揃いの特注Tシャツには「You Can Fight City Hall」と書かれていました。

 英語のイディオムで「Can't Fight City Hall」というものがあります。「シティホール(市役所)とは戦えない」。つまり、役人たち=官僚制度と戦おうと思っても無理、日本流に言えば「お上には逆らえない」「長いものには巻かれろ」という意味です。その「Can't(できない)」を「Can(できる)」に言い換える。日本には「ゲイに対するあり得べからざる差別が存在する」と日本の司法に初めて認めさせた「アカー」の勝訴は、「やればできる」というメッセージをアメリカ人に伝えて沿道から大きく拍手を浴びたのでした。

 そのパレードの終わった夜に、解散地点に近かった私の自宅に彼らを招いてささやかなパーティーを催しました。好天に恵まれ陽に焼けた彼らの晴れがましく誇らしげな顔を私は今も忘れていません。

 「日本の文化は武家衆道や仏教の稚児の慣習のように歴史的にも同性愛に寛容で、欧米のような(あるいは死刑相当の刑罰の残るアフリカやイスラム圏諸国のような)差別はない」と言う人たちがいます。もっとも、この場合の「歴史的にも」という言い方は明治以降の流れを無視していますし(歴史は、ある場合は簡単に断絶もするものです)、「色小姓」とか「陰間 」などのあまり肯定的ではない響きにも耳に蓋しているのでしょう。「歴史的に寛容だったから、いま現在も寛容になれる素地はあるのだ」という希望的な文脈で戦略的に語られることもありますが、そこにある欺瞞的な論理立ては否定しようがありません。いやそれ以上に、「差別はない」ならばなぜかくも多くのLGBTQ+の人たちがカミングアウトに逡巡するのか説明がつきません(*6)。その差別が、妄想や自家中毒の類いだと言うならば話は別ですが。

 「アカー」の裁判はその「差別」の存在を日本の歴史に初めて公に記したものでした。同宿した「日本イエス・キリスト教団青年部」から「こいつらホモの集団なんだぜ」と揶揄されたり旧約聖書の「女と寝るように男と寝るものは、ふたりとも憎むべきことをしたので、必ず殺されなければならない」の一節を読み上げられたり、別の少年サッカーの団体からは入浴を覗き見されたり「またオカマがいた」と嘲笑されたりした嫌がらせについて、被告の東京都側は同性愛者が同宿したことによって惹き起こされた「秩序の乱れ」であると主張したのですが、判決は明確に「同性愛者に対する蔑視」こそが原因だと認定し、さらに、嫌がらせをした側に対して施設利用を拒絶するならわかるが、嫌がらせをされた同性愛者側の利用を拒絶することには理由がないと断罪したのです。

 つまり、「秩序」を乱したのはアカー側ではなく、嫌がらせした側、さらにはそれを庇った青年の家側だと明言した―そして「従来同性愛者は社会の偏見の中で孤立を強いられ、自分の性的指向について悩んだり、苦しんだりしてきた」とまで言い切ったのでした。

 負けた都側は控訴します。けれど九七年結審の東京高裁でも、判決文はこう結論づけます。 

(アカー側が嫌がらせを受けた)平成二年当時は、一般国民も行政当局も、同性愛ないし同性愛者については無関心であって、正確な知識もなかったものと考えられる。しかし、一般国民はともかくとして、都教育委員会を含む行政当局としては、その職務を行うについて、少数者である同性愛者をも視野に入れた、肌理の細かな配慮が必要であり、同性愛者の権利、利益を十分に擁護することが要請されているものというべきであって、無関心であったり知識がないということは公権力の行使に当たる者として許されないことである。このことは、現在ではもちろん、平成二年当時においても同様である。(中略)都教育委員会にも、その職務を行うにつき過失があったというべきである。

 ―都側は上訴を諦めました。

 相対的であれ絶対的であれ「日本には同性愛差別はない」あるいは「法律で禁止しなければならないような差別はない」と言い立てる人たちは、法律で裁かれねばならなかったこの事例、司法による差別の明記の歴史を(恣意的に見ないフリをしているのではないのなら)単に知らないだけなのかもしれません。そしてこの日本初の同性愛差別裁判の勝訴の論拠となったのは、実は「ストーンウォールの暴動」から続く、アメリカおよび世界の「同性愛」非病理化の流れで構築された言説群だったのです。

 第一審判決は次のように言っています。長いですが、とても重要な歴史的事実として引用します。

 かって、同性愛に関する心理学上の研究の大半は、同性愛が病理であるとの仮定に立ち、その原因を見い出すことを目的としていたが、一九七五年以来、アメリカ心理学会では、同性愛に対する固定観念・偏見を取り除く努力が続けられてきた。

 国際的にも影響力のあるアメリカ精神医学会により作成される精神障害の分類と診断の手引き(DSM)においては、一九七三年十二月、アメリカ精神医学会の理事会が同性愛自体は精神障害として扱わないと決議し、DSM - Ⅱの第七刷以降「同性愛」という診断名は削除され、代わって「性的指向障害」という診断名が登場しDSM - Ⅲにおいてはそれが「自我異和的同性愛」という診断名に修正された。これは、自らの性的指向に悩み、葛藤し、それを変えたいという持続的な願望を持つ場合の診断名である。しかし、この「自我異和的同性愛」という診断名も、同性愛自体が障害と考えられているとの誤解を生んだこと、右診断名が臨床的にほとんど用いられていないことなどから、一九八七年のDSM - Ⅲの改訂版DSM - Ⅲ - Rからは廃止された。

 世界保健機構で作成されているICD国際疾病分類の第九版であるICD - 9をアメリカ連邦保険統計センターが修正し一九七九年一月に発効したICD - 9- CMでは、「同性愛」という分類名が「性的逸脱及び障害」の項の一つとしてあげられていたが、ICD - 9の改訂版であるICD -10の一九八八年の草稿では「同性愛」の分類名は廃止され、「自我異和的性的定位」という分類名が用いられており、これについては、「性的同一性、性的指向に疑いはないが、もっと違ったものであればよいのにと願い、それを変えるための治療を求める場合がある。」と記述されている。同じく一九九〇年の草稿では、「自我異和的性的定位」の項に「性的指向自体は、障害と考えられるべきではない。」と記述されている。

 日本においても、精神科国際診断基準検討委員会によってわが国の診断基準の「試案」が作られ、そこにおいては種々の意見があったが、「同性愛」は「性障害」の診断名としては取り上げられず、「同性愛」は精神障害に入らないとの前提のもとに、参考項目に付加的分類名として残されるのみとなった。

 このように、心理学、医学の面では、同性愛は病的なものであるとの従来の見方が近年大きく変化してきている。

 ところで、従来同性愛者は、婚姻制度の枠組みの外におかれていたが、サンフランシスコ市では、平成三年二月から同性愛者のカップルの内縁関係を市が認定する制度が発足した。

 サンフランシスコ市でも同性愛者に対する嫌がらせ、暴行が起こり、同性愛者の自殺も問題となった。また、教育の場では、一般の生徒は、同性愛者を性的な存在としてしかとらえず、完全な人格を持ったものとしてはとらえない傾向があった。そこで、サンフランシスコ市では、右のように従前正当な認知を与えてこなかった同性愛者の生徒の教育を受ける権利を保障するため、一九八九年から、同性愛者の生徒のためのサポートサービスが取り組まれている。

 同種のサポートサービスは、ロサンゼルス市、サンディエゴ市でも取り組まれている。

 ―今から見ればとんでもなくニュース価値のある判決文ですが、九〇年代日本の大方の人は、そういうことにはほとんど興味がなかった。

 それはちょうど、一九六九年六月二十八日の夜からニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジで、ゲイたち数百人、数千人が三日三晩にわたってストーンウォールの〝解放区〞を作った時も、そこからちょっと離れたウォール街やミッドタウンではまるで何もなかったかのように普段の生活が続いていたのと似ています。世界の性的少数者の人権運動史上燦然と輝くこの暴動、反乱事件ですら、実は今でもアメリカ国内で(日本ではなおのこと)知らない人は多い。人は、自分に関係のあるものにしか興味を持ちません。「関心」とはそういう言葉です。

オールアメリカン・ボーイの憂鬱

 ところが一九八五年のアメリカに、一般人が「ゲイ」のことに急に関心を持たざるを得ない事件が起きたのでした。私はおそらくこれが、日本の「無関心」とアメリカの「関心」を分けた事件ではないかと思っています。もちろんそれ以前に、「関心」への下地は十分に準備されていたのですが。

 「一九八五年十月二日、ビヴァリーヒルズの自宅で、俳優ロック・ハドソンが朝九時ごろにエイズ関連の合併症で亡くなった」というニュースが世界を駆け巡ったのです。彼は五十九歳でした。

 彼はエイズで死亡した世界的有名人の初めての例となりました。身長百九十六センチ、黒い髪にやさしげな目、ロマンティックな低い声―彼は、最もエイズから遠い(すなわちゲイとは無縁の)「オールアメリカン・ボーイ(All-American boy /すべてのアメリカ人を代表するような男性)」という称号をほしいままにしていた人物だった(と一般には思われていた)のです。

 日本の芸能界なら誰に相当するでしょう。女性にも男性にも大人気の国民的青春スターだった昭和の石原裕次郎とか加山雄三とか、そのあたりでしょうか。今はメディアが細分化した分だけ人々の関心も細分化して、昔のような老若男女すべてを惹きつける国民統合的な「大スター」という人物を挙げられないのが残念なところですが。

 数カ月前から、病状や所在などに関してさまざまな噂や憶測は渦巻いていました。これ以上興味本位のゴシップをばらまかせておくことはできないと、八五年七月二十五日(死の六十九日前です)、ロック・ハドソンのエージェントがとうとう「エイズを発症している」と認めました。ところがその後でもしばらく、彼の罹患は「男性同性愛者以外0 0 でもエイズになる」という文脈で語られました。「オールアメリカン・ボーイ」の「異性愛性」を信じる、社会的喚起・啓発の一環として。当時の《ピープル》誌がハドソンの叔母リーラのコメントを引用しています(*7)。

彼がそう(ゲイ)だとは私たちは誰も一度も思ったことはありません。いつもなんともいい人(such a good person)だった。それだけです。

 けれど彼はゲイでした。
 《タイム》誌はこう書きました(*8)。

 先週、ハドソンがパリの病院でエイズによる重篤な病状で横たわっているとき、このオールアメリカン・ボーイは、長年にわたりずっと公にしてこなかった秘密を抱えていたということが明らかになった:彼はほぼ確実にホモセクシュアルだったのである(he was almost certainly homosexual)。

 なんともホモフォビック(同性愛嫌悪的)でスキャンダラスな書き方です。確かに一九八五年というのはアメリカでエイズ禍が拡大(全米死者数はその年一万二千五百二十九人を数えました)し、その〝元凶〞としてゲイ・コミュニティが槍玉に挙げられ、それゆえに宗教保守派に支持基盤を持つ当時の共和党大統領ロナルド・レーガンエイズを政治課題としてはまったく取り上げないままでいた、そんなホモフォビックな年でした。エイズ活動家たちの常套句は「誰か白人で金持ちのヘテロセクシュアルエイズになるまでマスメディアも政治家もエイズのことに振り向きもしない」というものでした。そこに白人で、裕福で、屈強な〝ヘテロセクシュアル〞のシンボルだったハリウッドスターがエイズに襲われたのです。しかも彼は(やはりハリウッドの俳優だった)レーガンの長年の友人で、保守的なバリバリの共和党支持者でした。彼の真実が露呈したことの衝撃は凄まじいものでした。

 サンフランシスコ・クロニクル》紙のジャーナリストだったランディ・シルツが一九八七年、エイズ禍拡大の真っ只中で大部の労作『And the Band Played On : Politics, People, and the AIDS Epidemic』(『そしてエイズは蔓延した』訳・曽田能宗/草思社/一九九一)を刊行しました。その本の最初の五年間のエイズ史の書き出しは「一九八五年十月二日、ロック・ハドソンが死んだ朝に、(エイズという)その単語は、西側世界のほとんどすべての家庭で普通に知られる言葉となっていた」でした。

「ゲイ」の変身、「女」たちの献身

 彼の死がアメリカの「世間」に与えた衝撃は二種類です。一つは、自分の知っている人物がエイズで死ぬという衝撃です(それまでの死者はすべてほとんど「他人」でした)。もう一つはそれに関連して、あんなに男らしいロック・ハドソンがゲイだとすれば、他の誰がゲイではないと言い切れるだろう、という、反語の形の衝撃でした。

 「ゲイ」は自分たちとは関係のない、どこか闇の世界の住人でした。「性のバケモノ」という話は「プロローグ」で説明したとおりです。そうした、これまで揺るぐことのなかったゲイに対する自分の認識が、ひょっとしたら間違っているのかもしれないという初めての疑義が世間の人たちの心によぎった……それはまさにこのロック・ハドソンの、スキャンダラスな報道に汚され、衰弱した姿を写真で晒され、尊厳も奪われた非業の死がもたらした衝撃の余波でした。

 ―私たちの周りには、私たちが気づかなかっただけで、ゲイやレズビアンであることをひた隠しにしている友だちや家族や同僚がいるのではないか? 私たちは気づかぬうちに、そんな友人知人たちにひどい言葉を聞かせていたのではなかったか? 私たちは彼ら/彼女らに対して、取り返しのつかないことをしてきたのではなかったか?―私のことをいつもやさしく大切に思ってくれていたあの人は、ひょっとしたらゲイだったのでは/レズビアンだったのではないのか?

 この時、エイズをめぐる潮目が変わります。同時に、ゲイに関する見方も変わり始めるのです。それらは不意に「自分に関係のあるもの」へと変貌する。

 もちろん依然として、「ロック・ハドソンも、うまく隠していたが結局は変態性欲の異常者だったのだ」という昔ながらの言説の引力は大きなものでした。それは主に保守的な男性層からの反応でした。けれど(これはどうもジェンダーロール=男女に期待される役割分担のステレオタイプを語るようで難しいのですが、敢えて記せば)主に(「共感性が強い」とされる)女性層の中から、ゲイ男性に対するこの〝ひどい仕打ち〞に関して、そうであってはならないという反発が生まれたように思います。ロック・ハドソンにとってのその筆頭は、彼と何度も共演し、アメリカのスイートハート(恋人)と呼ばれた女優で歌手のドリス・デイや、誰もが認める大女優エリザベス・テイラーでした。

 彼女たちはハドソンについて発言し、エイズについて(つまり間接的にゲイについて)語りました。エリザベス・テイラーが米国エイズ研究財団(amfAR = American Foundation for AIDS Research)の創設メンバーとなり(一九八五)、自らの名を冠した「エリザベス・テイラーエイズ基金」を創った(一九九三)のも、ハドソンの感染と死がきっかけでした。フェミニズムの台頭で七〇年代に袂を分かつことの多くなっていたゲイ・コミュニティとレズビアン・コミュニティが、多くレズビアン女性たちの方から再び歩み寄り始めたのも、そんな彼女たちがゲイ男性たちを看病するためのエイズ禍が契機の一つだったように思います。同様に、ハドソンの死の時期を境目に急激に増え始めたゲイ男性やエイズをめぐる数々の小説や映画やTVドラマ(NHKでもその後に放送された米NBC製作の『An Early Frost (早霜)』は、ハドソンの死から一カ月余り後、一九八五年十一月の放送でした)でも、多くゲイ男性の女友だちや母親、祖母、姉妹などの女性たちが理解と和解の橋渡し役を担うパターンが定着していきました。

「政治的正しさ」と「綺麗事」と

 忘れてならないことがあります。「ゲイ男性に対するこの〝ひどい仕打ち〞に関して、そうであってはならないという」言説が多く女性たちの中に生まれてきたのが、八〇年代の「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ=PC)」の風潮を土台にしていたということです。

 このPCという用語は初めは七〇年代にかけての学生運動新左翼フェミニストたちが、内輪のジョークのように使っていたものでした。仲間内で性差別あるいは人種差別的な物言いがあった時に、彼ら/彼女らは文化大革命の政治委員や紅衛兵のような言い回しで「同志よ、それはあまりポリティカリーにはコレクトではない!(Not very‘ politically correct’, Comrade!)」と言っていたそうです。

 けれど性差別、人種差別の問題は七〇年代を通して肥大する一方でした。そこにエイズ差別(を通したゲイ差別)が被さってきます。PCはその時、揶揄やジョークではない、命に関わる切実な運動になっていきます。そしてその切実さと重要性をすでに知っていたのが、マチズモ(男性主義)の横行するアメリカ社会の真っ只中にいた女性たちだったわけです(もちろんそうじゃない女性たちも多かったですが)。

 八〇年代のアメリカで九年にわたって大ヒットした大富豪一家の愛憎劇TVドラマ『ダイナスティ』で、ロック・ハドソンが主人公一家の妻クリスティにキスをする場面がありました。八四年のシーズンでした。そして翌八五年、ハドソンのエイズ発症が公のものになる―その際、ハドソンのキスがクリスティ役の女優リンダ・エヴァンスにHIVを感染させたかもしれないという疑問が持ち上がりました(もちろんキスなんかでHIVは感染しないということは今ではわかっています)。TVホストにそう質問されたエヴァンスは毅然として返します。「私は病気ではないし、私は何も恐れていません。いったいどこからそんな話が出てきたんですか?」

 この時のことを後に彼女は回顧録(『Recipes for Life: My Memories』未訳/二〇一六)で記しています。要約すれば―

情熱的なキスの代わりに、ロックはさっと唇を掠かするようなキスしかしてこなかった。そしてすぐに体を引いてしまう。何度やってもそうだった。業を煮やした監督が私の方から情熱的なキスをしてと言ったが、私はそれは「クリスティ」の役柄にそぐわないと言って断った。翌週に再撮影したときもロックのキスは同じだった。やがてロックのエイズが明らかになった。彼がどうしてキスをしてこなかったのか、私はその時そのわけを知った―。

 「思えばあのとき」とエヴァンスは書いています。「彼は懸命に私を守ろうとしていてくれたんだと思う。それを思うと感動で心が震える」と。

 彼女のこの言葉を綺麗事だと吐き捨てることは私にはできません。その時に「きゃー、怖い!」と喚かない矜持。そのプライドを「綺麗事」と言い換えるのは、ポリティカリー・コレクトを矮小化するトリックです。PCとは、八〇年代の米国で立ち上がりつつあった社会的弱者たちの言挙げを支える、切実で真剣な言説運動でした。それはのちに「アイデンティティの政治」として批判される先制攻撃の道具としてではなく、自衛のための装具として働きました。今でこそ「ポリコレ棒」とか「PC疲れ」とか「正義を振り回す少数派」とか非難されもしますが、そもそも我が物顔で「正義」の棒を振り回して「自分たち以外の者」を叩きまくったのは「宗教という絶対正義」を盾にした保守派(多数派)の人々の方でしたから、「ポリコレ棒」とはまさに逆に、そんな彼らの(数千年に及ぶ)先制攻撃に対する初めての正当防衛の道具、反撃の大義名分として機能したのです。たとえその後、それがある部分で「言葉狩り」の皮相へも流れたとしても。

大義名分としての「エイズ

 ワシントン・タイムズ》の保守派編集長ウェスリー・プルーデンは当時、ロック・ハドソンエイズにかこつけて「いまやエイズは、戦闘的ホモセクシュアルたちにとっては有名人の病に格上げされた」と皮肉たっぷりに書き記しました。これでまた喧しく騒ぎ立てるのだろう、という揶揄です。

 彼の予想どおり、ゲイ・コミュニティは社会の危機としてのエイズ対策を大義名分として「戦闘」していきます。「ゲイ」という個人的事情はカミングアウトに逡巡するのですが、「エイズ」のカミングアウトは政治対応を訴え社会危機を防ぎ対策予算を得るための、奨励されるべき立派な行いになったのです。かくして人々はエイズのカミングアウトを通して、あるいはエイズ患者/HIV陽性者支援活動への参加や関与や関心を通して、ゲイであることも間接的あるいは直接的に公にするようになってきました。

 ロック・ハドソンの悲劇が異性愛社会にもたらした啓示―「私たちの周りには、私たちが気づかなかっただけで、ゲイやレズビアンであることをひた隠しにしている友だちや家族や同僚がいたのではないか? 私たちは気づかぬうちに、そんな友人知人たちにひどい言葉を聞かせていたのではなかったか? 私たちは彼ら/彼女らに対して、取り返しのつかないことをしてきたのではないか?」という気づきの予感は、かくして時間をかけながらも確実に実感に変わっていきます。大統領のレーガンは友人だったはずのハドソンの死から二年後に、やっとエイズ対策を自分の政権の政治課題として演説の中で登場させます。それはエイズ患者たちも(そしてゲイたちもまた)人間なのだという、政治的な宣言の第一歩になりました―ロック・ハドソンの死は、世間を覚醒させる爆弾として機能したのです。
 

*1
タワー倒壊を意図し、爆弾を満載したヴァンが地下二階の駐車場で爆発、六人が死亡、千四十人以上が負傷したイスラム過激派によるテロ事件。駐車場四階層にわたって直径三十メートルの穴が開く威力だった。

*2
武装籠城したカルト集団が五十一日に及ぶ連邦司法当局との対峙の末に銃撃戦となり、出火する形で集団自殺。集団側は子ども二十五人を含む八十一人が死亡。

*3 
死者百六十八人、負傷者六百八十人以上という犠牲者を出した白人武装ミリシア民兵)による車載爆弾テロ事件。

*4
日本の新聞社では政治・経済部記事を硬派、社会部記事を軟派と呼ぶ。

*5
東京都の青少年育成施設。民間の青少年団体等が申請して使用。二〇〇五年二月に閉鎖。

*6
「auじぶん銀行」調べ(二〇二〇年八月二十五~二十八日、調査対象は、LGBTなど性的マイノリティ当事者と非・当事者のビジネスパーソン各五百人)では当事者が職場の同僚・上司に自分がLGBTであるとカミングアウトした人の割合が一七・六%。非当事者で自分の友人・知人にLGBTの人を知っている人は二一・四%(https://suits-woman.jp/kenjitsunews/163923/)。かなり増えてはきたが、アメリカでは二〇二〇年同様調査(各二千人対象)で、逆に四〇%の従業員がLGBTQを公表していないこと、うち二六%が公表したいと願っていること、などが明らかになった(https://www.bcg.com/publications/2020/inclusive-cultures-must-follow-new-lgbtq-workforce)。

*7
“How Rock Hudson’s Death Changed the Perception of AIDS” https://goodmenproject.com/featuredcontent/how-rock-hudsons-death-changed-perception-aids-jvinc/

*8
“Medicine: Rock: A Courageous Disclosure / Hudson spotlights the dilemma of gays in show business” http://content.time.com/time/magazine/article/0,9171,1048462,00.html